連休のすごしかた

in 思考の果実

連休の過ごし方が昔と比べてずいぶんと変わった。

一人でいるときは「いかに自分の時間として有効に使うことができるか?」だった。フィルムカメラを持ってどこかに出かけたり、当時付き合っていた妻と遊びに行ってばかりだったと思う。

結婚して、仕事が楽しくなってきた頃は「連休のどこを仕事に回すか?」をよく考えていた。考えざるを得なかったと言うと少し悲しいが、与えられた仕事を「自分ごと」と考えたら考えるほど、日頃追いついていない仕事を連休で消化させたり、休みだからこそ手をつけられる仕事をしていた。

しかし、子どもが生まれて、子どもが話せるようになって、本人にやりたいこと、やりたくないことなどの「意志」が生まれて、どこまでもどこまでも走れるようになってくると、僕の中での連休という期間の捉え方が変わってきた。

連休は「子どもが楽しく笑顔で居られる時間をいかに作り出せるか」になってきた。

だから、今日はショッピングモールに行って、今日は大きい公園に連れて行って、晩御飯はアレを作ってもらって食べて……という感じで、連休の午前午後すべてを子どもに費やすわけにはいかないが、どれだけの割合を費やせるか?どの日の午前・午前を費やせるか?ということをとても考えるようになった。

それは子どもに対してだけでなく、妻に対してもそうなってきた。日頃ずっと子どもの面倒を見てもらっているからには連休くらいは妻が独りでいられる時間をどれだけ作れるか?そのために子どもと二人になって遊びに行ける時間をどれだけ作れるか?ということにもつながってきた。去年くらいから連休は(思えば土日という毎週の二連休も)そういうことばかり考えていた。

でも、最近の連休は「子どもが楽しく笑顔で居てもらえながら、僕自身が楽しく居られる時間をいかに作り出せるか」に変わってきた。

「笑顔で居る子どもを見る時間が僕にとって大切」とかではなく、「僕も、僕が、楽しいと思う時間を過ごすことこそ、その時その場で共に居るみんなのために大切」ではないかと考えるようになった。

たとえ4歳であれ、たとえ親子であれ、さまざまなかたちでお互いのコミュニケーションはめまぐるしく変化しているはず。たとえ4歳でも「遠慮」もすれば「あきらめ」もすれば「期待」もすれば「独占欲」も「協調する喜び」も併せ持っているわけで、そんな自分の中のいろいろな感情と相対しながら、同時に親である僕との「それら」も見たり感じたりしながらコミュニケーションをとっているはず。

ならば、「仕方がないから子どもを遊び場に連れていって休日を潰す」というような考え方で接していては、たとえそういうことは何一つ口に出さなくても、4歳の息子にはその目論見が伝わってしまっているように思う。それを読み取ってしまうととても悲しいと思う。せっかくの休日なのに。連休なのに。

だから、最近の連休は「僕が楽しいと思えることがあるけれど、子どももそこに連れて行こう。そこでお互い楽しめることを見つけるかつくるかしよう」と思って過ごしてる。

で、今日は朝から映画を観に行って、妻が嫌がろうがベーコンエピを買って一緒に食べて帰って、外が強烈に暑いので家でゆっくりと過ごしてから、妻に餃子の生地と餡を作ってもらって、僕が包んで焼いてもらってみんなで食べた。
息子が前に楽しく手伝ってくれた「伸ばした生地に餡を乗せる役」を今日も息子にやってもらう予定(そして僕が包む)だったが、今日は何故だか料理する直前に積み木で「鉄塔が連なる様子」を再現するのにハマり、餡を乗せるよりそっちを優先したいと意志表明したので夫婦で料理して食べた。

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