思考の酵母 ‘休み’

今の状況で『遊び』をクリエイトする

in 思考の果実

ゴールデンウィークなるものが今夜で終わる。

デザインの仕事に携わるようになってからまるまる休んだことなど一切無かったゴールデンウィーク。お客様と連休中に電話やメールで進捗状況を連絡し合いながら、連休中にデザインを提出したり、連休明けの午前に提出したりする仕事が毎年なぜかあったため、もはやその意味がよくわからなくない気がしていた。しかしながら、今年は仕事をそれほど抱えておらず、連休中や明けの午前に出さねばならない仕事が無かったために、本当に10年以上ぶりに家族とゴールデンウィークを過ごした(とはいえ夜は仕事を進めてはいます)。

今年は4歳の長男と生後2ヶ月未満の次男がいるので、その面倒に追われる連休だった。下の子が1歳以上だったとしたら、4人でどこか遠いところに旅行にでも行けたんだと思うけれど、生後2ヶ月未満は危険が多すぎる。しかも今はクルマが無いため余計に外出が大変。というわけで今年は旅行はせずに「親のちょっと行ってみたいところ」と「長男を遊ばせられるところ」に出ていた。

前者は兵庫県立美術館のガウディ×井上雄彦展とアースデイ神戸だけで、これには次男の真言も帯同。道中でなんとか布おむつを変えながら、授乳しながら移動した。長男をいかに退屈させずに長距離を歩かせるか、が課題だった。
後者は近所の大きい公園や立命館大学大阪キャンパスにある児童公園、あと扇町公園などに長男を連れて連日通った。どこも同じような境遇の親子連れでごった返していた。

4歳ともなるとやはり同世代の子たちと遊びたがるもので、初対面であれお互いに「不快な何か」が無ければ仲良く遊ぶものなんだということに今回改めて気づいた。立命館では女の子姉妹とずっと水遊びをして、日暮れで先方が帰るというと別れる寂しさを感じてひとりしんみりしている長男がいたりした。今日の扇町公園でもものすごく仲良くなった3歳児と帰る瞬間まで手を引っ張って遊んでいた。

4歳の長男を見ていると、人間は「同世代と遊ぶことを欲する生き物」なんだと思った。どれだけ親しく優しい親や祖父母が遊んでも、「遊んであげる×遊ぶ」の関係が子どもながら感じてしまうのか、たとえ親たちが「対等に遊ぶ」ことを努力したとしても、生きてる年月の差が否応なしに生み出してしまう「視点の高さの差」のようなものを感じてしまうものなのかわからないが、「親たちと遊ぶ」と「同世代と遊ぶ」とでは明確な差があるように見える。
6歳の子などと遊ぶと論理性にとても差があるから、4歳児の言ってることが6歳児にわからず、6歳児から「合わせてあげる」的なつきあいかたされることも多く見える。
また、同じ年or年下と遊ぶと「独占欲の衝突」が起こって力の弱い方を虐げたりしていることも多く見える。

でもそれでも、「親たちと遊ぶ」のと「同世代と遊ぶ」のとでは、子どもが自主的に「今の状況で『遊び』をクリエイトする」ことのステージの高さが明確に違う気がする。
たとえ初対面であれ(往々にして初対面)同世代の子でフィーリングの合う子と出会うと、とにかく単純なことでもなんでもいいから「今一緒にできる『遊び』」をクリエイトしはじめる。もう砂いじってるだけでも、単に追いかけっこをしているだけでもよいらしく、「いっしょにできる、楽しめる遊び」が、その場で発明される。

そんな「空気」がお互い居るその場で生まれる瞬間、なにかかたちにならないものを初対面の子ども同士で創造しはじめる瞬間に、僕が遠くから見守るスタンスになって立ち会う。この楽しさったらないな、と今日思った。

親になってよかったと思う。(両腕の日焼けに苦しみながら)

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